気が付いたら1週間も更新していませんでした。市議会の一般質問の準備やら、議会で騒動が持ち上がったりしていました。
本当は、そういうことを書くべきなのに、渦中に入ると書いてる余裕がなくなります。
そこで、頑張って書かなくてはならないのですが・・・。
この日曜日、咢志会のみなさんと、津久井の尾崎行雄記念館に行ってきました。咢志会は尾崎行雄記念財団で行っている咢堂塾のOB会です。
誰?尾崎行雄ってという方がいると思います。
尾崎行雄は明治時代の第1回の国会議員選挙から、戦後まで国会議員を63年も務めた「憲政の神様」とも呼ばれる国会議員です。文部大臣、司法大臣を歴任し、東京市長も兼務した人です。東京市長として行った事として、日米友好のために、ワシントンのポトマック川の桜のプレゼントなどがあります。
徹底した平和主義者であり、戦争反対を唱え続け、戦争後は、平和な世界を作るために、「世界連邦」を提唱した人です。
選挙区は伊勢だったのに、なんで津久井に記念館があるのかというと、津久井出身だからです。
記念館の見学と「尾崎行雄を全国に発信する会」皆さんから尾崎行雄をテーマに講演をいただきました。
見学の時は、わざわざ展示物を手に取らせてもらいました。国会開設前、尾崎が翻訳したイギリス議会制度の解説書など、発行は明治15年!
旧仮名遣いなので、よく読めませんが歴史を感じました。
講演では、尾崎行雄の徹底した戦争反対と平和主義の思想と活動を話されました。戦争中、B29から平和主義者尾崎を讃えるビラが撒かれたエピソードなどを聞きました。
「尾崎行雄を全国に発信する会」の皆さんと議論を深めましょうという事で、「一言口火を切ってくれませんか?」と頼まれたので、
①尾崎行雄の時代は、第1次大戦後、帝国列強が軍備拡張を競った時代であった。尾崎は戦時でもないのに軍備拡張は無駄だと考えていた。今の日本は、北方四島と竹島を占領され、尖閣列島まで占領されそうになっている。また、日本人は国内で拉致をされている。
もし尾崎が現代に生きていたら、軍備は無駄だと言ったと思いますか?
②尾崎は徹底した平和主義でした。同じく、徹底した平和主義者ダライラマの統治する徹底した平和国家チベットは、戦後、中国共産党軍に武力攻撃され、国を失いました。また、平和主義者のチベット人は数百万人も虐殺され続けています。
平和主義は本当に平和をもたらしますか?
と2点問いかけました。
「尾崎行雄を全国に発信する会」の方は津久井町で教育委員長をされた方など見識の深い方ばかりだったので、
皆さん、「難しい問題ですね。」と考え込まれてました。
議論が深まるかなと思ったら・・・。
女性の参加者から「チベットが中国と戦争して勝てるわけ無いでしょ!」と以下、「日本は軍備より外交官を育てろ。」とか思いつきの空疎な持論を延々とまくし立てられ、すっかり台無しになってしまいました。論点もすっかりすっ飛んでしまったし・・。
「平和主義を訴えるぐらい精神性が高い国に対して、攻撃する国は無い。」という9条論者の観念論を掘り下げて考えてみたかったんですが。
チベット人の武装蜂起をダライラマ自身が止めさせた事や、CIAが対中国政策の一環でチベットに武器供与をした事実など話しても無駄なので、黙っていました。
女性参加者の空疎な持論が延々と続く中、他の方から、「尾崎行雄は戦前国賊と呼ばれたが、戦後は一転、憲政の神様とあがめられた。尾崎行雄に光を当てることはGHQの占領政策の一つだったのではないか?」との声が上がりました。
女性参加者の空疎な持論が延々と続く中・・・。
しばらく考えてました。
「どうして、尾崎は国賊から憲政の神様と評価を大きく変えたのだろうか?」
当時、平和主義者は、平和外交の幣原喜重郎や石橋湛山もいました。
なんで尾崎行雄だったのだろうか。尾崎行雄でなければいけなかったのだろうか?
国会前の憲政記念館に行きますと、尾崎行雄の銅像だけが建っています。
どうしてなんでしょうか?
民主主義の確立や普通選挙制を唱えれば、むしろ、自分の銅像が建つことを嫌がるのではと思います。
私自身、尾崎行雄の「人生の本舞台は常に将来にあり」という言葉は、いつも心に刻むようにしています。