武蔵村山市には、国立感染症研究所のBSL4施設があります。建設以来、長年使用してこなかったのですが、3年ほど前に藤野市長が稼働を容認しました。一応、市は厚労省に対して「BSL4施設を移転して欲しい。」と要望をだしています。厚労省から、「今、この自治体と移転先交渉をしています。」などと返事が来たことはありません。
再稼働に当たって、国に条件を一つも突きつけなかった武蔵村山市です。なめられているんです。「万が一の事故での市民の避難を考慮して、モノレールの延伸開業を持って、再稼働を容認する。」とでも言えばよかったんです。国家戦略としてBSL4を稼働させないといけないというのなら、それぐらい呑んだでしょうにと、残念に思います。
北方領土の利用計画が白紙の内に、いち早く声を上げるべきだと思います。
そんな事から、共産党から提出された「二島返還だけで、日露平和条約を締結しないように求める意見書」に反対討論をしました。
日本共産党が提案している、二島返還だけで日露平和条約を締結しないように求める意見書に反対の立場から討論をします。
まず、北方領土交渉の簡単なおさらいをします。意見書案でも言及されている1956年の日ソ共同宣言の9項目目に、「ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。」と書かれています。意見書案で言及しているように、二島返還で終わりとも、領土返還交渉の道が閉ざされるとも書かれていません。日ソ共同宣言の中には、国後島、択捉島の事は全く触れられていないので、これらの島に関しては両国が合意できなかった。平和条約締結後の議論の余地があると考えるべきだと思います。
当時、なぜ、日ソ共同宣言以降、平和条約締結、二島返還と進まなかったかというと、「ダレスの恫喝」というものがあったからと言われています。当時のアメリカ国務長官のダレスから、「ソ連と平和条約を結んだら沖縄を返さないぞ!」と脅かされ、日本側が、ソ連が絶対に飲めない四島一括返還にハードルを上げたという話です。諸説紛々で真実は歴史の闇の中ですが、保守大合同で、55年体制ができたばかりの自民党政権です。ダレスが恫喝したのかもしれないですし、党内で良しとせずという力があったのかもしれません。多分、その両方があったのではと個人的には思っています。
しかし、以来60年以上、歴代の自民党政権も、この意見書とほぼ同じ主張を踏襲してきました。東西冷戦や日米同盟の国際情勢の中で、「終戦間際のどさくさ紛れで領土を奪ったソ連」と火事場泥棒のような印象を作るのに非常に効果があったと思います。
武蔵村山市には、国立感染症研究所のBSL4施設があります。武蔵村山市は移転を求めていますが、受け入れを表明する自治体も無く、厚労省も移転先確保に本当に動いているのか全く見えません。このままでは、国立感染症研究所のBSL4が永久施設化するのではと危惧しています。
根室のノシャップ岬に立ったことがある方は分かると思いますが、岬の突端から見下ろすと、目と鼻の先に歯舞群島の水晶島が見えます。根室から最も近く21キロ平米もの広さがあります。60年以上も前からロシアは返すと言っているのですから、誰も住んでいません。木も生えないすすきの野原という環境で、農作物を育てられないからかもしれません。
BSL4施設の移転先として、水晶島ほど適当な場所は無いのではないかと思います。
そのような理由から、この意見書への反対の意思を表明し、反対討論とします。
当時の、日ソ共同宣言時代の自民党は鳩山一郎政権でした。鳩山は党人派かつ、日本の自主独立の立場でした。鳩山一郎政権の後継と目されていたのは、岸信介。安倍晋三総理の祖父です。岸も河野一郎も二島返還先行論です。
国後・択捉には多くのロシア人が住んでいます。彼らの処遇をどうするかなど、具体策を示さずに「四島一括返還!」などというのは無責任です。もし、国後・択捉が帰ってきて、地方議会と首長選挙をしたら、当選するのは全員ロシア人でしょう。そこで、「ロシア復帰を求める決議」を全会一致でされたらどうなりますか?
「四島一括返還」論者の人は考えたことがあるんでしょうか?
ロシアとしたら、歯舞・色丹に米軍基地さえ来なければ良いのでしょうから。