武蔵村山市議会議員 天目石要一郎(あまめいし よういちろう)の活動報告

利権屋や某カルト団体の政治圧力の暴走捜査などの嫌がらせにもめげず、利権や不正とたたかっています。

李登輝講演録 その3 戦争と平和 2013.12

 戦争と平和についてのお話です。戦争は理性でなく、人類の動物学的な衝動から起こるのではないかと述べられてます。私も同感です。大東亜戦争の時代は医学の進歩で人口が大幅に増えた時代でした。毎年人口が約1%増える時代でした。マルサス人口論で、「人口は等比級数的に伸びるが食料は等差級数的にしか伸びない!」と言われ、食糧危機の恐れもある時代でした。生き残るためには他の国に行かねばならないという時代でした。ブラジル移民や満州開拓ではすまなくなり、不幸な戦争に突入してしまったと思えます。
 一方、今の日本は人口減少社会です。お隣の中国は一人っ子政策で、日本以上に急激な高齢化が進んでいます。高齢者人口も2億人を突破しています。尖閣問題とか騒がれますが、日本と中国が戦争になるとは思えません。両国とも、政権維持のために適度に愛国心を煽っているだけなのではと思っています。
 李登輝先生の「戦争と平和」論に触れて、ますます、そんな思いがしました。
 
 
 
 戦争と平和について述べたいと思います。
 人類と平和について論じるには、先ほど申し上げた人間とは何かという事を考慮に入れる必要があります。
 「戦争はいけない。」、「戦争はやむおえない。戦うべきだ。」といった、その人の価値判断ばかりが先走る議論が多い中で、現実の世界の中で平和はどのようにして可能となるか?その条件について考査する必要があります。

 この中に書いてありますから見てください。
 
 ※李登輝総統の対談集「メメント・モリ」を配布してくださる。・・・・
 
 皆さん、疑問・質問があったら申し出てください。
 
 人類の歴史は異なる組織の集団による、権力の興亡の繰り返しでした。なぜ、それが繰り返されるのかという事において、するどい見方を示しているのがロシアの文豪 トルストイが書いた「戦争と平和」です。トルストイは19世紀初頭、ナポレオンのロシア侵攻という時代を描いた著作の結びの中で、もっとも重要な考えを述べています。少し長いですが引用してみましょう。
 トルストイは、その当時進行していた歴史上の事件の原因は、「我々の理性と理解の及ぶものではないのは明らかだ!」と悟ったという事です。
 我々の理性では理解できない歴史上のこういう事件は、数百万の人間がお互い殺し合い、50万人も殺した事件は一人の人間の意志を原因としたものではないと言うのです。
 世界の創造の中から、それは肉体的にも精神的にも悪だと分っているのも、何のために数百万の人間がお互いに殺しあったのでしょうか?
 それは、必然的に必要だったからです。人間達は殺戮を行いながら、自然の動物学的な行動を実現していたのです。まさに、ミツバチが秋になるころ、お互い殺し合い、動物のオスたちがお互い殺し合う行為そのものです。そして、それ以外の答えを、この恐ろしい答えに答える事は出来ないと述べているのです。
 このミツバチの件について、私から説明しましょう。ミツバチはね。秋になると、ミツバチのオスは交配が終わったら、ほとんど2種類に分けられていく。結局、蜜を取ってくる。お花から蜜を取って、蜂蜜を作り上げる。その仕事と、それから、交配のために存在する、いわゆるオスのハチ。ところが、秋になると交配が終わるから、このオスのハチ達がどうなるかというと、もう、仕事が無いから、あと、食べ物が少ないから作った蜜を食べざるおえない。食べざるおえないから、ここで殺してしまう訳ですよ。
で、殺しあう行為そのものです。それ以外の答え、この恐ろしい答えしかない。生きるためにね。ミツバチが。
 実は私、ミツバチを養ったことがあるんだ。台湾省の主席をやっとったときに、チュウコウシンソンでね、ミツバチをやっとった。その時は、このような事について深い研究をやらなかったから、あの、トルストイのこれを読んでからね、実はこの論文
メメント・モリ)を書いた後、屏東のガラビに行きまして、別の用事で行って、帰りにものすごいたくさんミツバチを養っている陳さんという人を訪問しまして、彼に聞いたんです。ミツバチの状態について。
 そしたらね、同じ事言ってた。秋になるとオスのハチがほとんど殺されてしまう。殺される理由はね、オスのミツバチはね、もう、交配が終わった後に、彼ら仕事がないの。食べるだけだ。この者たちを残すわけにいかないというような話ですよ。
 この事でね、実はね、動物的な一つの原則ですよ。
 ところで、皆さんに聞きたい事が一つあるんだ。あの、梅原さん、あんたは東北の人だから、こけしこけしとは何だね?
 
 梅原元仙台市長「こけしの意味ですか?」 
 
こけしの性別を問われ、
 
 梅原元仙台市長「男女です。両方あります。」

 両方ある?そうだったかな?
 こけしはね。女性だけよ。私の家には50何個集めている。家内が熱心だ。この事に反対している日本の方、たくさんいるんだ。
 私、言わんとするこけしの歴史はね、こけしはね、おそらく平安朝から、鎌倉、戦国時代、そして、江戸の初期はね、日本の農業技術がね、まだ、そんなにはやっていない時、だいたい青森から秋田ね、山形、あんたの所、岩手だっけ?
 
 梅原元仙台市長「いえ、宮城です。」
 
 宮城だっけ?宮城はそんなにひどくないんだ。そこら辺になるとね、もう冷たくてね、もうほとんどがね、お米がね、取れなくなるんだね。11月ごろになるとお米取れなくなって凶作に入る。ほとんど、東北における凶作というのは非常にひどいですよ。昔からね。
 司馬遼太郎さんが、「街道を行く」その中に東北をかいたのがあるんですね。そこら辺みると、ただ農業にたよるというのは非常に難しいんだよ。もう、気候が悪いんで、冷たいでしょ。ほとんど米なんか取れなくなる。そして飢饉が来る。昔はそうだった。
 後で、明治以降は農業技術とか良くなったからほとんどこういう事はないけど、ところがね、ああいう昔の状態はね、米もなくて、何もなかったらどうしますか?年の小さい女の子を亡くしてしまうんだよ。
 
 梅原元仙台市長「子供を消すので、こけしなんでしょうか?」
 
 こけしというのは、子供を消す訳よ。消した子供というのは、ほとんど女性ですよ。女の子ですよ。だから、こけしはね、ほとんど男はいない。全部、女ですよ。きれいなね。田舎ではね、道のそばでこんなこけし作ってお祭りしてるもんね。
彼ら、犠牲になっているんですよ。あの時の家庭の人たちを助けるために犠牲になった訳よ。それがね、長い歴史でね、
 これが一つのね、私が言うミツバチのオスの話と同じような運命になる訳だ。
 動物学的な生きるために、誰を生かす、誰を生かさない。こういう困難の中で、こういう事が出てくる。川村さんなんか兵隊におるから、こういう事はよく分るはずだ。難しい問題だ。
 こういう事で、こけし、最近本がでてます。こけしのことで。こんなのはウソだ。そんなのじゃないと否定してますよね。
 ところが、私の知っている限りでは、北海道から来る冷たい風ね。ことにシベリアから来る冷たい風とかね。ほとんど東北は非常に苦しかった時代だったんだよね。これから見ると、結局、私が言う自然の動物学的法則では、ミツバチのような事を
やっていると、こういう事ね。
 トルストイによる戦争の観察は先ほどお話した、「人間とは何か?」に対するするどい見方を示していると同時に、平和についての視点を提供しています。トルストイは歴史上の事件の原因は、人間の理性の及ぶところではない。人間の理性では
及ばない。しかし、動物のオスたちがお互いに殺しあうような太古からの動物的な法則があるとしても、人間には、それにしばられない自由意志があるのではありませんか。
 しかしながら、そもそも人間の自由意志は、その自由なる意思によって、自由意志にむすびつけられているというのが現実です。その束縛のもっとも強い状態を権力ということができますが、なぜ、こうした不自由が生じるかといえば、逆説的なことに
まさしく人間の自由な意思によってなのです。
 すなわち、なぜ人間が人間の作る組織集団が戦争を、あるいは平和の状態を繰り返すかといえば、人間の生命原理が分割と結合を求めてやまないためであって、それが、権力によって、お互いが結び付けられているからにほかなりません。
 戦争と平和という状態は人間が人間であるというまさにそのために生じるものであって、両者はいわば一体のものです。そう考えれば、単純に「戦争はいけない!」と言うのは無意味な事が分るでしょう。あるいは逆に「戦争は戦うべきだ!」とも簡単には言えません。
 人間はいつまでも戦い続けることはできないからです。
 いずれにしろ、平和が成立する条件とは、あくまで具体的な状況から探るしかありません。「平和とは戦争が行われていない状態にすぎないのです。」とは言え、私は「戦争が起こるのは仕方がない。」といった諦観を述べている訳ではありません。
 後で述べるように、平和の実現において、指導者の責務は何より重いものがあるからです。先ほどの「人間とは何か?」という観察に基づけば、仮に世界から全ての戦争をなくしてしまうのは難しいとしても、やはり、戦争は例外的な出来事であり、世界の大半の人にとっては、平和こそが現実の日常です。実現が難しいのはあくまで戦争の状態であって、平和ではないのです。更に言えば、戦争がない状態とは、いわば政治社会の出発点に過ぎず、「平和が一番大事だ!平和こそ価値がある!」という事は出来ません。
 それだけで、市民が、自由で豊かな生活を送る事は保障されないからです。
 もちろん、問題点は、どうすれば、その平和を実現できるかという点にあります。「平和のために全ての武器を廃絶すべきだ!」という考えを言うことは、実現不可能なユートピア的平和論にすぎません。
 これは、日本が今ぶつかっている問題ですね。しかし、逆に武器で隣国を絶えず脅さなくては平和を保つ事が出来ないと考える事は、国家の自衛範囲を超えて、自ら侵略に身をさらすような愚行です。「武器を持ってはいけない。」ところが、お隣の隣国に絶えず拒否される。そんな状態をね。国家の自衛範囲を超えて、こういうような侵略に目をそらすというのは、愚行だ!馬鹿ですよ!
 このように平和についての議論は、実は、平和そのものでなく、それを実現する方法をめぐる争いについての歴史なのです。