武蔵村山市議会議員 天目石要一郎(あまめいし よういちろう)の活動報告

利権屋や某カルト団体の政治圧力の暴走捜査などの嫌がらせにもめげず、利権や不正とたたかっています。

李登輝講演録 その4 指導者の条件 2013.12

 指導者に必要な倫理観や苦悩を乗り越えるために、信仰心が重要だと述べられています。
 行き着くところは「我是不是我的我」、「私は私であって私でない私」であると。
 
 「私は私であって私でない私」という考えの説明が講演ではされていないので、かいつまんで説明します。「私は何のために存在するのか?何の意味や意義があるのか?」という事を考えると、どうも、
「私利私欲のために存在するのではないのではないか?」と思い至ります。「社会のため、人のために
存在するんではなかろうか?」と利他の精神が出てきます。
 私は自身の人格を持っている。そのうえ我欲よりも利他の精神を持つ。それが自分自身である。
という事が「我是不是我的我」という李登輝哲学の中心になります。
 諸先輩からは、理解が足りないとお叱りを受けそうですが、お含みいただき読み進めていただければと思います。
 
 最後に、指導者の条件についてお話しましょう。
 国内においては、強制力を持つ主体的な国家の他にありません。
 しかし、一方で完全な民主的社会では、国民の利益に反する行動を取る政府は、選挙によって取り替えられる可能性があります。その点において、国民の利益が害される心配は少ないと言えるでしょう。
 しかし、国際政治では、それぞれの国家に対して、強制力を行使できる主体は存在しません。国連にもそのような強制力はないのです。国際政治には、はっきり言えば、「戦争は今でも国際政治における現実にほかなならない!」のです。
 だからこそ、その現実を冷静に見つめて武力を保持しつつ、戦争に訴える事なく、秩序を保ち、国益を増進する方法を考えるのが現実的な見解といえよう。
 いうまでもなく、政策の手段としての軍事力はあくまで最後の手段であり、実際、戦争によって状況を打開するといった選択に対しては、より、慎重な判断が必要なのは当然です。
 結局のところ、古今東西の別なく、人類の歴史は異なる組織集団の分離・統合の繰り返しです。時代の断面を切り取れば、組織や共同体の興・繁栄・滅亡は指導者によって、強く影響を受けている事がわかります。
 指導者の持つ力と背負っている条件によって、組織の盛衰は左右され、その本題を決定づけるカギとなっている事が多くあります。
 歴史上の指導者の類型をみると、重大な決断を下す時の苦悩は、被とそれぞれと言っても過言ではありません。しかし、決断には共通する点があります。それは、大事をなすために普通の人では及ばない気概と高い自負心を持っているという点です。指導者は自らを激しく奮起させ、人々を導く事で、新たな未来を創造するのです。
 1988年から12年間、私は台湾の総統として民主化を進めた他、国際的地位の向上や国民精神の向上、経済的な発展などに力を注ぎました。民主国家の自立という理想を実現し、よりよい社会を構築するため普段の努力をしてきました。総統在任中は、中国のミサイルによる恫喝を受けるなど、まさに苦難の連続でした。平和のうちに台湾の民主化を進める事が出来ました。
 戦争と平和の繰り返しこそが、人間の作る歴史の宿命だとしても、指導者は国民を幸福に導くため、あくまでも戦争でなく、平和を求めなくてはならないのです。
 私の経験から言えば、政治において、唯一の助けとなるのは信仰です。自らの倫理観を貫き、能力を充分に発揮するには、信仰が是非でも必要なのです。歴史の宿命を超越した何かすばらしい永遠の平和のために限りある生命の時間をつくすことが出来るのは、ただ信仰の助けがあるからなのです。指導者は個人の権力にとらわれてはなりません。指導者に必要なのは「私は私であって私でない私なのです。」という事です。

 これで、私の話をおわります。ありがとうございました。
非常に難しいところがたくさんあった。
みなさん、お互いこの事についてお話しましょう。