武蔵村山市議会議員 天目石要一郎(あまめいし よういちろう)の活動報告

利権屋や某カルト団体の政治圧力の暴走捜査などの嫌がらせにもめげず、利権や不正とたたかっています。

李登輝講演録 その2 人間とは何か? 2013.12

 続いて、人間とはなにかという話です。ちょっと哲学的な話です。人間社会や歴史は個々の結合と分離の視点から見る事を説いておられます。ちょっと難しい話ですが、子ども時代の話を交えて分りやすく説明してくださっています。
 
 
では、早速、お話をはじめましょう。
 まず、はじめに人間とは何か。人間とは何かについてお話ししたいと思います。「人間はね、自分が分割されない個、インディビジュアル。英語で言ったら独立ね。」として一回限りのかけがえのない生を受ける存在である事を自覚するとき人格となります。
 人間の人格というのはこれとこれに始まる みなさんにこういう事言うのおかしいけど、人間はね、このインディビジュアルとして一回限りのこの生をいかに生きるかという努力をやるわけですよ。人間は。また、その時はじめて、自分でない他の全ての人間と向かい合い、そして他の人間を自分とは異なる別の存在として認識し尚、自分と共に生きる他者として経験する可能性を持ちます。
 非常に難しい言い方でしょ。結局 自分がそうである。その他の別の存在として、他の人、他者、これも、同じように人格を持った人間達であると。そして、この人たちと共に生きて行く。こうして、公としての自意識を核に、「核ね!」中心としながら
自分に向かい合う世界を対象化してとらえてゆく事が出来るなかに、文化がうまれます。
 ここに文化があり、歴史を生み出してゆく人格の前提があると言えるでしょう。
 ここまでくると難しい哲学的な問題ですが、これは基本的にはね、「人間とはこんなものである。」というのは、後で説明しますけど、これはもう私みたいに聖書を読んでいる人間から見ると当たり前だね。
 人間はこうした自己形成の過程において、二つの根源的衝動を抱えて生きることになります。すなわち組織集団から分離するという欲求と共に、自分を守る対象に近づこうとする結合の欲求です。これが宗教的なシンボルをもちいれば人間の二つの根源的な衝動によって生じるサイクルは、いわゆる、創世記に出ている「楽園と楽園喪失」とね、「パラダイス、ロストパラダイス」という言葉で説明する事ができます。
 旧約聖書の創世記冒頭における天地創造においては、神は光と闇とを分けて、大空のもとに下と上とに水をわけて天をつくり、そして、最後に乾いた所に水を分けて、海と地をつくりました。さらに、男性アダムを創造し、女性イブを創造しました。光と闇、上と下、男と女、それまで混沌としてお互いにとけあっていたものが神によって分かたれることによって、創世記では、その冒頭に記す、「初めて」という時間が始まるのです。時間というのはここに始まる。結局、光から問題が変わってくる。
 こうした人類の古い神話は個人の生活史の中で繰り返される生命原理です。つまり、共生的環境からの分離と結合という人間が持つ根源的な情動を示しているために、きわめて主体的な意味を持っているように感じられるのです。
 
 私もそう感じている。というのはね。12歳の時にね、家におったらね、母が甘やかしている。ものすごい甘やかしているんです。

 私ね、怖くなっちゃってね。こんなに甘やかされたらね、私、誰だか分らなくなってしまうな。これじゃね潰れますよ。堕落しますよ。
 
 だから、こいつは駄目だなあ。やっぱり母に反対いえないからね。うその話をした。
 
 今、田舎の学校で勉強する訳にいかない。これじゃ中学もどうも通る可能性がない。だから、「町から離れて、田舎から離れて、淡水の町の学校に入りたい。」と
言ったら、「ああ、そうか。」と許してくれたね。

 母に「あまり甘やかしてくれるな。」と言ったら、怒るでしょうね。そのかわりに「学校を移してくれ。」とそういうことでやった。

 私、考えてみたら、聖書の中に出てくる、分離とね。この分離から新しい結合に入ってゆくとね。こういう事を、非常に私、個人的にも強く感じることなんですよ。こういう人間というのはね、自由から不自由という形で離れて、また結合してゆく。その過程、根源的な衝動を持ちながら人間はやってゆくんです。
 こういうような所に、共生的な環境から分離と結合。これは、古い シンボルで示されているが、実際的な意味はある程度持っている。
 ここにおいて、我々はもう一度、死、考えなくちゃいけないのは戦争と平和